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いまさらですが定番中の定番の本を、今さら読みました。
wikipediaにすら載っている
片付けに関するワードの中で、たぶん日本で一番有名で知名度が高いのはこの言葉じゃないでしょうか。
その内容と、「断捨離」というわかりやすい名前のおかげで浸透度は高い気がします。
この記事を書くのでちょっと調べたらwikipediaにすら載ってました。
まあ、wikipediaは集合知というか、載せたければ誰でも新しい項目を増やしたりできるっちゃできるそうですが、それでも、載ってるだけの知名度はあるってことですよね。
ただ、私は今までこの言葉に関する本を読んだことがありませんでした。
なんかね、どうにもイメージがよくなかったんですよね。
私は「片付けの魔法」で片付けをしたくちですが、別に断捨離のやましたさんと片付けの魔法のこんまりさんの間がどうとかそういう話も聞いたことはないですし、とくにこんまりさんのシンパというわけでもないつもりです。
なんだけど、断片的に目に入る断捨離に関する情報(主にTLで拾う)がね。
「そろそろ断捨離しなくちゃ」「断捨離しなくちゃ。捨てるものさがさなくちゃ」
なんだか、断捨離をしてると語る人たちって、なんだか判で押したように
「捨てなくちゃ」「やらなくちゃ」「捨てるもの探さなくちゃ」と、「しなくちゃいけない」という言い方をするんですよ。なんだか捨てないと殺されるの?って言いたくなるくらい、まるで呪文のように「捨てなくちゃ」「捨てるもの探さなくちゃ」って。
それって、楽しいか?
なんで、そんな必死に持ってるもの引っかき回して捨てるものを「探して」「見つけて」まで捨てないといけないの?しぬの?
なんか宗教っぽかったんでご本人たちに言ったことはありませんが、そう思ってました。
そしてマスコミも、「ものを捨てる=断捨離」みたいな構図をつくって、ダンナの大事にしてるものを女房が捨てた・売ったってだけで断捨離のせいで事件が起きた、みたいな書き方をするもんだからなおさら印象がよくなく(笑)
このあいだ、いくつか片付け本を読んだ時に、そういえばそもそもの経典を私読んだことなかったなあ、と思い出して、さすがに図書館にあったしさすがにもう大人気で借りたい人が長蛇の列なんてこともなくて書架に入ってたので借りてきました。
感想:うーん。
すいません。読みましたが、私は共感できませんでした。
以下、読みながら感じたツッコミポイントを挙げてみたいと思います。
上から目線
まず最初に気になるのが、語調です。
いちおう語り言葉なんですが、「○○と断捨離は考えます」という文脈が多いです。
ものを捨てる時に「もったいないから」「まだ使えるから」といってとっておくのは「モノ」を主体にした考え方で、これがよくない、片づけに際して考えるべきなのは「自分がこれを今使うか(使いたいと思っているか)」という、「自分」を主体にした考え方をすべきである
というのがわりと何度もでてきて、自分を主軸にものを見直そう、そうすることで本当はいらないものがたくさんあることがわかってくる、というのがこの断捨離という考え方の主軸の一部だと私は解釈したんですが。
その考え方じたいは、なるほどと思うし、納得もできます。
が。
「自分」を主軸にものを考えよう、という思想の提唱者が「と断捨離は考えます」って「断捨離」という、自分が作った概念をまるで神様のように棚の上へまつりあげて自分がその代弁者であるかのごとく語るというのは、なんか矛盾を感じるし、「私が言ってるんじゃない、これが断捨離である。控えおろう~~~~」って振りかざしてる感があって、トップダウンというか、いいからこれに従え!的な上から目線というか上からの圧力を感じます。
結論ありき
こういう本は基本的に説得力を持たせるために実例がたくさんのってるものですし、そこにはもちろん失敗例というか挫折した人の話とかは載ってないしそれはべつにこの本に限った話ではないんですが。
文体のせいなのか、とにかく「断捨離をすれば何もかもがうまくいく」という結論が先にあって、「○○さんはこれこれのことで悩んでいたが断捨離を決心して捨てていくうちにすっかり心が晴れ上がった。今は素晴らしい日々を過ごしている」的なこう、なんかこう、結論に持っていくために作文しました、みたいな印象が強いんです。
捏造だと言ってるわけじゃありません。そんなこと書いた本人以外にはわかりません。
何年もセミナーとかやってらっしゃるようですし、ありもしない例を捏造するより実例を書いちゃったほうが早いのは明らかですからたぶんほんとにそういう生徒さんはいたんでしょう。
でもなんか、実感がわかないんです。
何冊か読んだことのあるんですが、ダイエット関係のコミックエッセイのふりをしたちょうちん本もそういう空気があったんですよね。だいたい、提唱者が「監修」してるとそれはコミックエッセイではなくコミックエッセイのふりをした宣伝本です(笑)。そういう本ってやっぱり、「はじめたらすごいやせました!」だけで実体験の部分をすませてしまって、あとはメソッド礼賛が続くんですが、この本の体験談も結局はそういう感じ。「悩んでましたが断捨離をすることに決めました。やったらすべてがよくなりました」あっはいそうですか。ってなっちゃいます。
作者の立ち位置があっちこっち
最初のほうにも書きましたが、「と断捨離は考えます」というフレーズのおかげで、作者の立ち位置がよくわかりません。
あなたがこの考え方作ったんじゃないの?あなたが推進してるんじゃないの?なんで断捨離様みたいなものがどっかにあって、その第一使徒みたいな物言いしてるの?
そのわりに、あっちこっちに地金が出るというか、使徒なら使徒でいいんで貫いておけばいいのに「私は」と作者の我があちこちからずぼっと顔を出してくる。
まあ、たんに文章の問題なだけなんでしょう。私が気になるだけなんだと思います。「断捨離では、こういうふうに考えます」って言えばよかったのになあ(・x・)
断と離は?
断捨離っていうでしょ?
だから断と捨と離の話だと思うじゃないですか。
ちがうんです。
捨てる話しかありません。
とにかく捨てる。そうすると自動的に断と離もいつの間にか達成されている。
みたいなかんじで、なんかすごく断捨離といいつつ最初と最後が観念的なんです。
捨てれば、もうこれ以上捨てないために余計なものを買わなくなります、だから断です、捨てれば、余計な執着がなくなります、だから離になります、きっとそういうことなんだと思うんですが、じゃあなんで断捨離ってあたかも並び立ってるような言い方をするのか。
なんか、捨てる以外の話がちょろっと出てきては結局何も掘り下げられずにほうり出されるのを見るたびにもやもやしました。
しかも、最初が捨てるなんです。
断捨離っていうなら、まず断って、捨てて、離れる、に受け取れるのに。
だったら捨断離っていおうよ(>_<)
イメージ勝ち
結局、断捨離の何が一番すごいって「語呂がいい」ってことなんですよね。
ご本人も何度か本の中で「だんしゃり」という響きが人をひきつけて、みたいなことを書かれてましたが、たしかにこの言葉はわかりやすいしぴしっとまとまってます。
ヨガの行から発展させました、なんていうのも、なんだか神秘的っぽいですよね!
でも、じっさいにはたんに捨てる本という。
このギャップがどうにも私は詐欺感があるというか期待はずれでした。
これは行である
もともと、最初にも説明がありますしちょっとぐぐると出てくるとおり、断捨離というのはヨガの行をもとにして構築された整理術ということになってます。
だからなんというか、全体に、行なんだから、修行なんだから、やらなくちゃだめでしょ、やるのが当然でしょ、という空気を感じます。
行なんだから、もうそれをやるのが当然、その行動に疑義をさしはさむことはあり得ない、というか。お坊さんがご本尊に向かって合掌しないとかありえないでしょ?というレベルでメソッドが語られてるので、じつはほとんど説明というか、こういう状況、つらいですよね?こうするとよくなりますよ、という導入的なものがありません。
実感がわかないのはそういうところもあるんだと思います。
登録商標ェ・・・
これは本の内容そのものとはややずれるんですが。
作者さんは「断捨離」とご自分の肩書「クラターコンサルタント」を商標登録してらっしゃるそうです。
お商売がお上手でいらっしゃるようですね(・x・)
あえて多くは語りませんが。
ていうか断捨離なんちゃらみたいなものでお金とると、このかたにライセンス料払う必要あったりするんですかね?(・x・)
蛇足:校閲が甘い
これは私のアスペ的な気になっちゃうポイントなだけで、悪いわけじゃないんだろうと思いますが。
本文が語り文なのに、体験談の多くが常態文なんですよね。「だ・である」文。
だったらそれはそれで統一すればいいのに、いきなり同じ体験談で「恥ずかしながらこれは私自身のことなのですが」って語り言葉でしかも作者がしゃしゃり出てくる。
なんか気持ち悪いの!!!!!!!
統一しろよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
すいません私はこういうのすごい気になるんです(;・∀・)
「しなくちゃいけない」とはどこにも書いてない
さて。
冒頭に書いたとおり、私の周囲にいる「断捨離実践してます」的なひとはおしなべて「断捨離しなくちゃ」「捨てなくちゃ」「捨てるもの探さなくちゃ」と言うんですが。
本の中にはどこにも、捨てなくちゃ死ぬとか、捨てないと末代までたたられるとか、そういう脅迫的なことはひとことも書いてませんでした。
ただ、全体に捨てるのが当然というか、まあ言葉にも「捨てる」が入ってるとおり、捨てるところからはじまるメソッドではあるんですが、捨てなくちゃだめですとは書いてないんですよね。
にもかかわらず、受け取る側が「捨てなくちゃいけない」、つまり捨てないと=言われたとおりにしないと先生に怒られる的な態度になってしまうのは、やっぱりこの本が上からのしかかってくるように圧力をかけてくる本だからじゃないのかなあ、と思います。
結論:やっぱりこれは経典であり啓蒙書である
もう、見出しの通りです。
結局断捨離というのは宗教で、「捨てないとだめ」という教義に縛られた信徒たちが「ステナクチャ」「ステナクチャ」とお経を唱えてるのが断捨離なんじゃないのかしら、と思ってみたり。
作者のやましたさんは、自分はスーパー主婦なわけじゃない、というために、本の中で何度か「私も片付けが苦手だった」「片付けがやりたくないから断捨離にたどりついた」みたいなことを書かれてます。それがまた、「私だってやりたくてやってるわけじゃない」というかwほかに手段がないから断捨離をやってるんだ、という、やらされ感というか、自発性を感じられないというか、提唱者なんだけどこのメソッドの主体じゃない感、第一使徒感をかもし出してるんじゃないのかしら、という気がします。
あくまで断捨離という神様がどこかにいて、たまたまやましたさんがそれに出会って、このすばらしい考え方を世に広めるべくあちこちで説法をして回った結果、日本中に断捨離信徒が大量に生まれた、みたいな(・x・)
だから断捨離ってやっぱり宗教だしそれを世に広めるために存在する、とくに最初のこの本は啓蒙書、宗教書、経典なんだと思います。
それは決して悪いことじゃないです。実際、たくさんの信者がいて、幸せになった人もたくさんいるようですから。
でも、なんだか私は、同じ「捨てる」でも、このメソッドに幸せになる要素を見い出せませんでした。
断捨離関係の本のどれかのレビューに、この本はカレン・キングストンの「ガラクタ捨てれば自分が見える」を焼き直してるだけ、みたいなのがありました。
「ガラクタ捨てれば~」は私も読んだことがあるというか、今になって思い起こせば片づけにスピリチュアルな意味を持たせてる本で読んだうちでは最初だったと思います。たしかに最初に読み終わった時にはなんだかすごくどこかに残るものがあったなあ、とうっすらとした記憶ですがなんとなくそんな印象が残ってます。本じたいはそれこそ最初のころの片付けで処分しちゃったんで今は手元にないんですが。
片付けという行動に案外とスピリチュアルな側面があることはわりといろんな本で語られてることですし、この「断捨離」でもそういうようなくだりはあるんですが。
ほかの本が「読んでみたら最終的にスピリチュアルな内容だった」のに対して、「断捨離」は「本文にこれはスピリチュアルですと書いてあるにもかかわらずスピリチュアルな内容がほとんど書かれてない」という(・x・)
上にも書きましたが断と離の部分がたぶんスピリチュアルなんですよね。
でも、そこについての言及がほとんどないから、ほら(・x・)
だから、焼き直しって言われちゃうのかもしれませんね。
データ
新・片づけ術「断捨離」
やました ひでこ (著)
単行本: 191ページ
出版社: マガジンハウス (2009/12/17)
言語: 日本語
ISBN-10: 4838720521
ISBN-13: 978-4838720521
発売日: 2009/12/17