舞台刀剣乱舞「悲伝 結いの目の不如帰」

ライビュでしたが初日のソワレを観てきました。なので感想をざっくりと。

いちおう決定的なバレは避けるつもりですがこぼれてしまうものはあると思うので観劇予定のかたで先入観なしに観たいというかたは回れ右で。

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予習オススメ

刀ステはDMMゲームスとスマホアプリで配信されている「刀剣乱舞」の2.5次元舞台です。

ゲームのほうは、正直知らなくても(・x・)とは思いますが(むしろゲームやるよりアニメ版観たほうがわかりやすい)、前作で(いちおう今までも匂わされてはいましたが)過去作が全部同じ本丸の物語であることが明示されて、かつ、過去作でのできごとへの言及が頻繁に出てくるので、ステの過去作、虚伝(初演・再演のどちらか)・義伝・ジョ伝の3作は一度は見てからのほうが楽しめます(虚伝の初演と再演を両方観てからだとさらに考えさせられる内容にはなってますが)。

一話完結ならいいんですが、シリーズとして芯のとおってる作品は、それだけ設定やストーリーを重厚にできますけど途中から見るといまいちぴんとこなくなっちゃうという、これはもうストーリーものの宿命かもしれません。

少し前に、私は虚伝~ジョ伝の4本を友人の好意で鑑賞しました。

とくに予習のためではなかったんですが、観終わったところで思ったのが、「新作観る前に観ておいてよかった」でした。

そして実際に「結いの目」を観たら、予想してた以上に過去作への言及が多くて、あらためて「観ておいてよかったわー」となりました。

とはいえ、・・・レンタルって基本的にたぶんないんですよねこの作品(;・∀・) ミュのほうならDMMとdアニメストアである程度配信があるんですが。

いちおう、虚伝は2018年6月現在、初演版がDMMで配信されていますので終了するまでは鑑賞可能です。

初日ライビュ感想

そんな状態で観劇した初日ライビュ。

とても美しい舞台でした。

映像的にというのもあるんですけれど、登場人物の心が美しい。

私はキャラにも役者にもとくに強い思い入れはありませんでしたが、1幕が終わって体をのばすために立ち上がってふっと振り向いたらすこしうしろに片手では数え切れない数、ハンドタオルに顔を埋めてしゃくりあげてるお嬢さんたちがいたことにも疑問は感じなかったし、2幕終盤にあちこちからすすり泣きや嗚咽が聞こえてきて、うん、そうだね、これは泣くよね、と思ってました。

なので、とてもいいものを観ました。

と、いうのを絶対的な前提として。

……まあ、こうするしかないよねえ、というふうにも思いました。

(ここから微バレ注意)

気になったポイント

目立って気になったポイントは、タイトルにもなっている「結いの目」というものの扱いと、それから登場人物の描写です。

「結いの目」

そもそも2時間から3時間をかけた舞台3本(4本あるいは外伝までいれれば5本。私外伝はこの時点では観てないんですがやっぱりリンクする内容だったそうなので)にわたってばっさばっさとでっっかく広げてきた風呂敷をたたんでいこうという段階です。

起承転結でいうならまぎれもなく「結」。タイトルじたいにも「結」は入ってますからいちおうかけてあるんでしょうけれど、別にかけなくてもよかっただろうになあ、とは思います。もちろんそれだけが「結」という字の役割ではなくて、タイトルどおりの「結いの目」という意味もちゃんとあったんですけれど。

まず最初にね、そこ、ほんと、かけなくてよかったと思うの。

もしかしたらそもそも、この「結いの目」という発想からすべてが組み立てられてきてるのかもしれないというか、シリーズ構成的な意味でこう落とす前提で今までの作品が全部組み立てられてるのは明らかなんですが、説明するためにこの概念に落とし込んだのかこの概念から出発してるのかという話で、まあ、プロのやることなんで後者かなとは思うんですけども。

けれど、これが言葉として登場してその言葉がいかなる概念をあらわしているのかが説明された瞬間に、

魔法が解けた。

○○○(よく使われる概念)きたわーヽ(´ー`)ノ

はいはいうんうん、□□□(作品名。複数)ですね(・ー・)

それぴくしぶで5万回ぐらいみたわー(>ω<)

ってなっちゃった。

まあ、じっさい○○○はその後すぐに舞台上でも同じ言葉で再度説明がされたわけなんですが。

うんまあ、もとより原作のある(脚本家あるいは演出家の完全な自由にはならない)作品であり、わけても2.5次元作品である以上、制作サイドには、誤解をおそれずに言うならば強烈な作家性は必要ありません。

観客が求めているのはあくまでも「刀剣乱舞」という作品であって、基本的にはゲームに存在している世界観やキャラクターをそのまま描き出したもの、「このキャラならこういう場面に立たされたらこうするだろう」というイメージや希望的観測を具現化したもの、そこから外れたとしても「いやでもここまでの流れからいってなるほどそれはこのキャラとしてそういう結論にたどりつくのは納得できる」と思えるものであって、脚本家や演出家の思想ではないわけです。(解釈違いについては後述)

なので、「きれいとか・・・言うな」がベースのスタンスであるまんば(山姥切国広)がなんらかの物語上の理由もなしに「俺は美しい・・・」とか自己陶酔しはじめるのは許されませんし、どんなに素晴らしい設定を思いついたとしても、ヤハクィザシュニナを出す必要はないんです(出てくるわけではありません)。異方存在と人類のコンタクトを描きたいのであれば正解するカドでやればいいのであって刀剣乱舞でやる必要はないわけです。

なのでまあ、ある意味(大多数に納得してもらえる説明という意味で)あのあたりが妥当な落としどころだろうなとは思います。

思います。

が。

そうなるとどうしても「あ、それぴくしぶでry」ってなっちゃうんですよね。

1幕と2幕の間の休憩時間では、同行の知人と「あの同人誌でみましたね」「あれですよね。みましたね」と深く頷き合ってました。(公共の場でしたので作品名はお互い出しませんでしたけども)

重ねて言いますが、悪いとは言ってません。

順当な落とし所だとは思いますし、そこじっさい最大の重要ポイントではあるんですが、ほんとうに重要なのはその事実ではなく、それを登場人物がどういうふうに受け止めてそれによってどういう結論を出しどういう行動をとるかということで、

・・・まあ、その行動というのも結局は「明らかに致命傷を負って死に瀕した最愛の人が苦悶しながら頼むおまえの手で楽にしてくれと言っていますあなたはどうしますか」ぐらいの選択肢で、まれに天才がそれは思いつかなかった!!!(>_<)って目からウロコが5900枚ぐらい落ちるような展開を作ってくれることもありますが、たいていにおいてその選択の内容はいくつかの決まったパターンに分かれます。

いくつかある分岐点での選択を組み合わせていくとやっぱり「それぴkry」になっちゃうんですけれど。

こういう題材を扱う上に、というか、2.5次元作品という制約がある中でその題材を選んだ時点で、順列組み合わせのどれかがくるのはもう最初から決まってることなのです。そうだということが、この段階にきてはじめて観客に明かされた、というだけのこと。

そして、それをどんな演出で見せるか、役者がどれくらい真に迫って(たいへん失礼な言い方でほんとに心からごめんって思いますが言葉の上でのことで役者の力量を云々してるわけではありません)そのキャラとして具現化してくれるか、着目すべきポイントはそこであって、その題材を選択したことではないので、それでよいのです。

解釈違いについて

さて、ここで昨今よく言われる「解釈違い」についてちょっと補足しておきたいと思います。

そもそも「解釈違い」というのは二次創作界隈から発生した言葉です。

Aというキャラクターを、私は○○(わかりやすい例:ツッコミ)だと思っている。

なのにあのひとはAを✕✕(わかりやすい例:ボケ)として描いている。

これはもう宗教なので、お互い相容れません。

かつてはこれが発端となって大喧嘩や大戦争に発展したりしたこともありました。

ですが、昔は同人誌即売会にいくか、通販等でその本を購入しなければそういう内容であるということはわかりませんでした。

なのでそれほどの大戦争にはならなかったんですが(逆に当時は発行者本人が通販をしてたので発行者の住所氏名丸わかりでカミソリ送りつけられたり、その後一時期某掲示板を騒がせた「押しかけ」なんかも発生しましたが)ネットの発達した昨今この問題は以前にまして大きな問題となりました。

だって、ツイッターでTLを眺めてたり、pixivで新着一覧を間違えてクリックしちゃったというだけでも、自分の好きじゃないカップリングや自分のイメージとちがう推しキャラがぽんぽん目に入ってきてダメージを受け続ける危険性があるんです。

その危険性の高さは、年に数回の同人誌即売会の会場で、カップリングごとに分割されている会場内で「なんらかの間違いで地雷カプのシマに迷い込んでそれを見てしまう」可能性の低さに比べたらもう天地の差です。

もちろん、多くの、常識ある人は「あっやばい」と思ったら反射的に半目になって目の焦点をぼやかせて視線をそらしてそっとそのウィンドウを閉じるとか、苦手なキャラやカプをRTしてくるフォロイーのフォローをそっとはずしたりあるいはミュートしたりして自衛につとめていたわけですが、一部(あるいは多数)の自己中心的で自分にとっての不都合は他人が責任をとるべしと考える幼稚な層(俗称:繊細ヤクザ)から「傷つきました謝ってください」「○○が苦手な人のことも考えたらどうですか」「配慮してください」という類の反応が出てくるようになって、直接当人にそれを伝えたり、あるいは「○○っていう人の○○っていうの読んじゃった」とは書かないまでも「最低傷ついたもう立ち直れない死にたい」的なツイートから該当の作者を第三者が一人あるいは結託して攻撃するといった精神的な暴力事件が多発するようになりました。

結果、何人もの二次創作者がいわれのない非難と攻撃に傷つけられ心を折られ、結果ツイッターに流したイラストやSSを削除したりアカウントじたいを削除したり鍵をかけてひきこもったり、pixivから該当作品を削除したりあるいは過去作をすべて非公開にする、pixivアカウントじたいを削除する、心を傷つけられた結果一時から長期、あるいは二度と二次創作ができなくなる、というような事例が多発することになりました。

そういったいくつもの事件を経てようやく、「人の感じ方はさまざまなんだから、解釈違いも発生する」「解釈違いがあったからといってそれは相手が悪いわけでも自分が悪いわけでもない」「そもそも二次創作は他人のためにやってるわけじゃない、自分の萌えを吐き出すためにやってるだけだ」(これはこれで極端に卑下しすぎるきらいがあるので個人的にはこういう表現は好きではないんですが)「読む側は作る側の萌えを共有してもらって読ませてもらっているのであって、同人作家は自分の萌える内容の二次創作を生産する機械じゃない」といった啓蒙活動をする人たちがあらわれるようになって、少しずつですが、「これは解釈ちがいだからしょうがない」というところにおさまる人が増えてきたのです。

これはつまり、自分と解釈が違うものを見せられたことによって自己を否定された、あたかも自分が攻撃されたかのような感覚になって、自己防衛と責任転嫁のために他者を攻撃したり、逆に「あの有名な同人サークルの人がこうだと言ってるんだから、このキャラをこう感じる自分は頭がおかしいのかもしれない」とショックを受けていた人たちが、自分のその感覚に「解釈違い」という概念を与えられることで「そうか、そういうものもあるんだ」「だったらしょうがない」「そういうふうに傷つくのは私だけじゃない」と納得したということが大きいわけです。

これは発達障害の認知にも似てますよね。

昔なら、授業の最中に突然大声をあげて騒いだり暴れたりする子供はただの頭のおかしい問題児だったり、他人とうまく人間関係が築けないとただ孤立したりいじめの対象になったり、あるいは社会に出て、覚えてしまいさえすれば難なく遂行できることも手順の飲み込みに時間がかかってしまうために周囲とくに上司から「馬鹿」「仕事ができない」といったレッテルを貼られてひっそりと葬られていったりしていたわけですが、ADHDやASD、ADDといった概念が確立されとくにこの数年急速に周知が広がっていったことによってそういった児童や社会人が居場所や配慮を得られたり、ただのきちがいや知的障害の代名詞のように扱われることの多かったアスペルガー症候群がそれこそネットで正確な情報が多く流布するようになって発達障害の一種であると周知され何かにつけて「あいつアスペだろ」と嘲りを受ける回数が減っていったりしているのと、理屈は同じです。

もちろん、今でも他人を根拠なくアスペ呼ばわりして笑いものにする層が残っているように繊細ヤクザも根絶やしになったわけではありませんが、この解釈違いという概念の浸透のおかげで、以前に比べればだいぶ目に入ってくるものは少なくなってきました。

そして。

じつを言うと最近、最大の地雷を生産するのは公式だったりします(・x・)

原作に明確に存在するシーンであったとしても、作画での表情や目線、キャストさんの演技(=プロデューサーによる演技指示があった、あるいはその演技をプロデューサーが是とした)によって、キャラ同士の関係性の表現には微妙な差異が生まれます。

そうすると、思い入れのある作品であればあるほど、「ちがう・・・こんなの私の知ってる○○(キャラ)じゃない・・・( ;∀;)」という事態が発生してきます。

思うんですが、どうも最近アニメ化作品って二次創作臭がする率が高いんですよね。

それは、二次創作の需要とその内容を知っている制作サイドが意図して寄せている場合もあるでしょうし、単純に制作サイドの中核が、そもそも二次創作の洗礼を受けて育った層にとってかわられつつあるからだろうと思っています。腐女子が男キャラのセットを語るとどことなくやっぱりカップリング目線が透けて見えたりするのと同じで、よほどじょうずに意識して隠さないとそういうのって透けて見えちゃうんですよね。

何かと燃料(健全だけどいくらでも邪推のできる密着ショット的なものとか)を投下してくれて、昇天者が続出して妄想のタネを提供してくれることから「公式が最大手」という表現がされることがありますが、アニメ化の場合、別の意味で「公式が最大手」、つまり公式が最も大きな「大手(発行部数が多く読者の多い)(二次創作)サークル」という状況が生まれてしまうのです。

ここで「私の知ってる推しじゃない」「推しはこんなことしない」「許せない」とどれほど金切り声をあげたところで、それが公式なのです(・x・)傷つきましたって言ったって謝ってくれませんしもちろん筆も折ってくれませんしアニメは当初の予定どおりの話数まで放送され続けます。

もちろん見ない選択もできますが、推しが動いて喋ってる姿なんか見たいに決まってます。もしかしたら来週こそ、あいつじゃなく自分の推しカプの相手と何かあるかもしれない(>_<)そんな淡い期待をいだいて、つい見てしまうことだってあります。そして、結局自分の推しとは違う、だけど公式である推しの姿に号泣することになるわけです。

そして、ここでこの言葉が生きてくるわけです。

「アニメは監督による二次創作」

「公式とは解釈違いがあるからしょうがない」

こう思わないとやってらんねーってのもありますが、そう考えることで公式であろうと他人の二次創作なんだからスルーする、あるいは解釈違いであってもそのキャラに飢えてるんだから拾えるところだけ拾うために見る、といった対応をとることができます。

まあ、だいたいのところ、なぜか公式は自分と逆カプだったり、自分の地雷推しだったりするんですよね(・x・)

話がずれたので戻します。

で、「結いの目」の感想でここまで長々解釈違いの話をしてなにが言いたいかというと、制作サイドが(スタッフも役者も)どれほど完璧にゲームのキャラを忠実に再現してるつもりでいても、可能な限り最大公約数に添うように作っていたとしても、どうしても解釈違いで受け入れられない場合はあり得るんで、そこはもうその時は諦めるしかないよね、という話。

でも、見てる限り、刀ステはほんとにうまいことすごく広い最大公約数を拾い上げられるようなキャラメイキングをしてると思います。

オリキャラの台頭

気になった部分その2。

私はライビュで見たので、本会場の空気こそ感じ取れないけれど本会場ではわからないこともある、役者の微妙な表情なんかはアップで見ることができます。

どういう撮影の仕方をしてるのか、よくある生中継でテレビカメラかついだスタッフがカメラ持ってる人とケーブルを邪魔にならないようにさばく人の二人羽織みたいな感じでうろうろしてたりクレーンに乗ったカメラマンがぶいんぶいん飛び回ってたりもしないわりに、まるで撮影されたドラマを見てるがごとく場面に合わせて明らかに適切なキャラの顔がアップになります。場合によっては画面を2分割して重要なキャラ二人をアップにしたりとかも。

何かすごくデジタルなことやってるんでしょうね。

で、そういう場合、すごく単純な印象として。

画面に写ってる長さ、アップになる頻度が多いほど主人公に近い位置

に思えるというのは、たぶん論を俟たないと思うんですが。

これ、足利義輝と「鵺と呼ばれる」という名称で公式発表されてるキャラが主人公だろ(・x・)

というくらい、その二人ばっかりアップになります(・x・)

出番大杉wwwww

いや、これもね、じつをいうと、「それなりの長さ続いてる二次創作シリーズ」にはよくあることなのです。

つまり、初期のうちはキャラの魅力や反応だけで物語が作れるんだけど、シリーズを進めていくにつれてそういう表面的なことだけじゃもう話がもたなくなってくるんですね。

かといって、それこそ解釈違いじゃないけど、そのキャラ本来の反応や行動の許容範囲を逸脱することをやらせることはできない。

そうなるとどうなるかというと、最も簡単なのが、

作者の意図する役割を果たしてくれるオリジナルキャラを投入する

ことなのです(・x・)

刀ステ(とりあえず今回は刀ステに限った話ということで)は毎回、その時中心になる刀と縁のある歴史上の人物を登場させていますが、前回ジョ伝の弥助に続き、今回も「鵺と呼ばれる」というオリキャラを登場させて歴史上の人物にからませてきました。

まあ、このキャラがよーく働くんですわ。

制作サイドが言いたい言わせたい見せたい場面セリフに向けて刀剣男士たちの思考や行動を誘導するための便利使いキャラなわけですから当然っちゃ当然なんですが。

そしてそれとからむ足利義輝も。

とくに今回は物語を終結へ向けて流していかないといけないわけなので、2回に1回は「鵺と呼ばれる」が出てきて印象的な(リーディングになる)セリフを言ってはハケていく。

宿命とはいえ、じっさいとてもよいキャラ造形で役者さんの演技もすごくうまかったし彼の存在そのものに文句はないんですが、別の視点で見た時にはどうしても、「作者の都合のためにこんなにオリキャラに全部やらせちゃってまあまあ・・・」という感想を持ってしまうことは、正直、否めませんでした。

それがね、一番楽だし確実なんですよ。

で、さっきも書いたように作家のオリジナリティはこういった作品では求められてないし前面に出すわけにはなかなかいかない。

小説であれば、とくに二次創作であれば(ページ数の制限という商業的制約がないから)そう思わせたい登場人物に何十ページでもかけて細かく思惟させてこつこつと丁寧にその結論へ彼の思考を導いていくこともできますけれど、舞台でそれをやらせたらテンポは悪いしひたすらモノローグが続くばかりで画面も見栄えしないしうざいし、だいいち、そんな思考の流れを言葉でえんえん聞かされたって観客にはそうそう理解できません。

だから、オリキャラ使うのはしょうがないことではあるんですが。

もうちょっとなあ、がんばってほしかったよなあ、そこは・・・

と、自分も(二次及び商業)創作をする人間として思わずにはいられないところです。

原作セリフ使いすぎ

そしておそらく、上の項目と連動して、あまりにもオリキャラが目立っちゃって原典である「刀剣乱舞」を少々逸脱してる、というか、本来見せるべき刀剣男士の活躍場面がほぼないっていうか彼らが目立てる場所が戦闘シーンに偏ってしまったというのもあると思うんですが。

刀剣男士が原作の戦闘セリフ言いすぎ(・x・)

もちろん、決め台詞の一種ではありますし、舞台の上のキャラがゲームで聞いてるせりふあるいは見てるポーズをとってくれることで「○○はほんとうにいたんだ!生きてる!!(>_<)」という感動や同一感(錯誤ともいう)が生まれるものではありますし、それをさっぴいても、やっぱり決め台詞かっこいいですからね、使いたくなるものです。二次創作する時も、うまく原作のセリフを織り込めると非常に気持がいいものです。

が、ちょっと使いすぎ(・x・)

そうじゃなくても刀剣乱舞っていうのは1キャラあたりたぶん50ぐらいしかセリフのない、うっすーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーいコンテンツです。中身がぺらんっっっっっっっっっっっっぺらんでほぼ存在しない(提示されていない)に等しいからこそ、逆にキャラの、これも合計で各5種類ずつしかない立ち絵とそのほんのわずかなワード群から想像できる余地があまりにも広すぎて、これだけの巨大な二次コンテンツが育ったわけですが、それは、ワードを並べた合間合間にいろいろと詰め込んでギャップを埋めるから育つのであって、ただワードだけを次々出せばいいってものではないのです。

毎回、「出陣の儀」という、私には存在価値のよくわからん点呼シーンがあるんですが。

今までだと刀を抜いて「(あれば)刀派○○、[名前]」と名乗ってポーズをとるだけだったのが、今回はとにかく出せるシーンには見せ場を作らなくちゃいけないと思ってるのか、ここでもごちゃごちゃとゲームのセリフ(しかも私の記憶が確かなら、開幕あたりでやっぱりそれぞれ自己紹介した時にしゃべったワードとだいぶかぶってる)を並べてキャラを立たせよう?としてて、まあ、かぶるのはね、もともと全数が少ないしその中で使えるワードを選んだらたとえば4つしかない中で3つずつ2か所で使ったらそりゃダブるよねっていうことなので、仕方ないっていうかどうしてわざわざ出陣の儀にセリフを足したし(・x・)

登場キャラの存在意義が微妙

今回、物語の舞台は足利義輝暗殺の永禄の変ですが、ストーリーにはじつは今回の歴史上の人物、足利義輝はあまりからみません(ネタバレw)。そのため、この歴史上の人物が出てくるならこのキャラが配置されるよね、配置されてもおかしくはないよね、という落とし所がありません。

もちろん、「その本丸に存在している刀」であればどの刀が出てきてもいいっちゃいいんですが。

信長話だから俗にいう「織田組」を出して、かつそのうちの1本である宗三の兄弟刀として左文字を出して、

伊達政宗がからむからいわゆる「伊達組」に、ちょっと強引に伊達と後代で縁のあった細川の刀である歌仙を配置して(ついでに小夜とは細川つながりだし)、

黒田官兵衛まわりを舞台にしたから日本号・博多を連れてくる

山姥切国広を精神的に支える役割として、同じ刀工に打たれて、かつ太刀(打刀であるまんばよりは設定上たのもしい)の山伏国広を配置する

自分が傑作と呼ばれるできでありながら一方で名剣の写しとして依頼されて打たれた刀であるというコンプレックスからなかなか抜け出せないまんばに、自分が写しであることをとくに気にしてない(というわりにゲーム中のせりふはがっつり自分が写しなことにこだわってるけどw)坂上田村麻呂の刀であった騒速(そはや)剣の写しとして作られたソハヤノツルキと会話をさせたり

っていうほうがおさまりはいいですよね。

まあ、その中に入ってない同田貫のような刀もいますし、今回はいちおう足利の剣として語られたけどジョ伝では次が足利だとはわかってなかったんでなんで骨喰がジョ伝に?とか、同様に、義伝では関わりがあったけど虚伝に鶴と光忠はじつは関連ないよね?いちにいと鯰尾ってなんで出てきたん?なんてことになりますが。

たとえば織田話がなかったとしても、長谷部が本丸にいることに誰も疑問は感じません。たぬきも、光忠も、山伏もずおばみもそうです。

彼らは、つまりどこの本丸にもいておかしくないコモン、低レア刀なので、いるのが自然というか当然というかいても誰も不思議に思わないくらい自然に拾える刀なんですよね。

一期一振、鶴丸国永といったあたりはレアの範疇に入りますが、通常マップでドロップしますんでレアの中では比較的コモンに近いレアですし、いち兄は(ステにはそんなにたくさん出てないけど)粟田口派の長兄として本丸での明らかな(ユーザーの中での)地位がありますし、鶴は鶴であの性格ですからトリックスターとしていてくれると何かと楽だからだいたいの本丸にはいるものだ、という立ち位置を、二次創作にある程度触れていれば飲み込めているのであまり違和感はありません。

前振り長くてすみません。

今回追加登場の刀剣は小烏丸・大般若長光・鶯丸に大包平。

どの刀も、なんだかこう、存在意義がぼやっとしてるというか。

いちおうその、大般若は光忠と同じ刀派で、レアリティを考えても(ゲームでの)中の人を考えても大般若のほうが格が上なので、光忠の相談相手というポジションに立つことができて、かつ、時代は違うけど(9代将軍の時だったかな?)一時期足利の刀だったことがあるという、いとこのはとこの結婚相手の3軒となりに住んでた一家が引っ越した先のおとなりさん、ぐらいのつながりもいちおうあるんですが。

義輝とはほぼからみがなくてその足利にゆかりのある刀という立場がまったく生きてないし、みっちゃんには「いつでも相談に乗るよ」と振ったものの結局相談は持ちかけてもらえなくて長船派の刀であるという立ち位置もぜんぜん活かされてない。

大包平は、これもいちおう、天下五剣=刀ステでは三日月しかいないので三日月にこだわって何かとつっかかっていくという役回りがあるものの結局1シーン、たぶんキモの場面はあったけどその前後がただ単に天下五剣だというだけで三日月を目の敵にしてぎゃんぎゃん吠えてるうるさい犬っころでしかないのでせっかくの見せ場も生きてない。

うぐぴにいたっては大包平とセットだから出てきたんかね?(・x・)ぐらいの存在感。
そもそも浮世離れしたキャラなので、問題発生に際して積極的に動いていこうとするところでもう違和感あるし、今回なにかとまんばがいじれない展開なので笑いは主にうぐぴがとってくれてたけど、・・・笑いとる要員なだけ?(・x・; 仮にも☆4太刀なのに?という印象。

そして小烏丸は。

彼にも、とても(作者の都合の上で)重要な役割はあるんだけれど。

あのシーンで何も言わずただあの痛ましい場面を見守ってた精神力はすごいと思うけど。

でも、別にあのシーンに小烏丸がいる必要って、じつはなかったと思うんだ(・x・)

しかもなんか、そう呼ばれるに至る過程の説明なしに鶴丸にもまんばにも「小烏丸様」ってひとりだけ様づけで呼ばれてるし(解釈違い)、不自然なタイミングで唐突に(作者が提示したい)命題を刀剣男士たちに投げかけてたりっていう、エデルさん感がパない。

※エデルさん:プリンセスチュチュの登場人物?の一人。唐突に手回しオルガンを回しながら現れては神の視点でないとわからないような謎めいたことを言って去っていく狂言回し。

・・・というふうに、どうもこう、今回のキャラクター配置には疑問を感じざるを得ません。

それにはたぶん、ひとつは、小烏丸にしても大般若にしても、またうぐぴはともかく大包平も、実装時期が他の刀剣に比べて遅いうえに特定のイベントでしか入手手段がないという、「どこの本丸にいてもふしぎじゃない」刀ではない、かつ、実装時期が遅いせいで、一定割合の審神者にはすでに飽きられてて入手されていなかったりしても育てないで放置されてたり、逆に彼らが実装されたころにはだいたいの熱心な=ある程度廃な本丸では他の刀剣はもうどれもこれもカンストだらけで、新参は隊長に据えられて何も倒せなくてもほかの刀が敵をばりばり倒してくれるパワレベで育てられるので「苦労してみんなで強くなった/強くした」「うちの本丸の子」感がどうしてもうすいせいもあると思う。

それはソハヤなんかも同じなんですが、今回大般若・小烏丸・大包平と3本もまとめて出てきた上にやはりステには初登場のうぐぴがキャラとしてはやや違和感がある(解釈違いだけかもですが)ので、結局刀剣側の登場人物の1/3にしっくりこない感があって、それはちょっと見過ごせない割合なんですよね。

ぶっちゃけ、最終的に2部隊出陣にするために12人ほしかったからとりあえずキャラを入れて、それから使い方考えたんじゃね?って思わないでもない(・x・)

そういうメタやめて(´・ω・`)

私は、基本的にメタがあんまり好きじゃありません。

そのメタであることでさえメタとしてネタにしてるとかならまだいいんですが、ナチュラルにメタやられると(´Д`;)ってなるたちです。

だからこれは解釈違いの部類に入るんですけども。

これはバレてもたいしてバレじゃないと思うので書いちゃいますが、義輝に「刀剣が乱れ舞うか、刀剣乱舞、見事である!」って言われる場面があってですね。

ちょっとそういうのやめて(´Д`;)ってなりました。

たかが1ワードですが(>_<) そこにいきなりメタつっこまないでほしかった。

どうしても語っておきたい

さて、気になったところはある程度バレなしで語れるけど、印象に残ったところはなかなかそうもいきません。

なのでひとことだけ、どうしても言っておきたいこと。

場合によっては、これでもけっこうバレになるかも。注意。

「鵺と呼ばれる」の、

「鵺と呼ばれる」と公式発表されてるオリジナルキャラ。

とくにジョ伝で印象的だったあの

チャカポコチャカポコ チャカポコチャカポコ チャカポコチャカポコ ッチャッチャッチャ

とか、時間遡行軍関連の場面でよく使われた、なんだろうあの南アメリカかアフリカかチベットかって感じの西洋音階じゃない音階のスキャット(音楽的教養ないのがほんとに悔やまれる語彙)で異様さをずいずい煽っておいてね?

ここにきて

○○○って。

もちろん、いかにもな組み合わせの逆でこういうアンバランスな取り合わせにするところに妙味があるわけだけれど。

「鵺と呼ばれる」の      とか     とか(反転してもなにもでてきません。空白で伏せてます)を考えると、あれはほんと、マジ(つД`)ってなります。

そのものずばり書こうかと思ったんだけど、やっぱりちょっと、すくなくとも上演期間中は伏せておくべきだと思ったのでやめました。伏せだらけですみません。

公演が大千秋楽を迎えたら、そのあとで、あらためてバレ全開の記事を作成できたら、その時に全部伏せなしで語ろうと思います。

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